修了制作《東亜の聖母》の作品解説文として執筆したものです
はじめに
筆者の家系は祖父母の代からキリスト教徒であり、カトリックの宗教3世にあたる。幼い頃に幼児洗礼を受け、カトリックのイコンは生活の中で非常に身近なものだった。そのため経験上触れてきた多くの「絵画」はカトリックの宗教画であり、現在においても絵画を描く上で宗教画に由来する透視図法の影響を大きく受けている。日本にいながらキリスト教美術を日常生活の一部として受け入れている状態に違和感を感じつつも、16-17世紀に伝わったキリスト教が、禁教の歴史を経てもなぜ現在において受け入れられているのか興味を持った。日本がはじめて西欧の宗教と本格的に対峙した時代に、現地民はいかにしてその信仰を受け入れたのだろうか。また、キリスト教側はどのようにして信者を獲得していったのだろうか。そこには植民地支配における抑圧/非抑圧の関係があったのか、もしくは違った方法で布教したのか。その関係性を紐解くことによって、当時のキリスト教徒がどのような風景を想像していたのかを探る手がかりになるのではないかと考えている。
本修了制作《東亜の聖母》は、物質的には直接交わることのない様々な事物を一枚の平面空間に組み合わせることによって、平面における新たな空間の在り方を模索し、日本とキリスト教の距離について考察を試みた作品である。制作の第一の動機は、キリスト教の教化・禁教に至る歴史の中で、当時の信徒が土着の観音を聖母マリアとして理解していた事実を受け、目の前の現実の風景とキリスト教文化の風景を同時に見ている状態はモンタージュ的なのではないだろうかという問いから発生している。第二の動機は、キリスト教の植民地化の歴史を抑圧/非抑圧の対立から多元的な見方へと捉え直すことはできないか、という疑問であり、第三は絵画を複数の時間の層が集まった集合体と捉え直すことにより、絵画における空間表現の新たな視点を切り開くことは可能かという問いである。
これらの問いを踏まえ、本解説文ではまず日本と中国のキリスト教布教の実態を明らかにしつつ、そこで宗教がどのように混淆したか事例を用い論述する。次に、異なる宗教が渾然一体とした状況をいかに絵画として描けるかを提起し、山下菊次の《あけぼの村物語》における画法を参照する。その上で、本修了制作において筆者がどのような方法で絵画を制作したかを述べ、絵画における新たな空間の在り方を提示し、本作品解説の結びとする。
1章 キリスト教美術の布教と受容
1-1 日本と中国におけるキリスト教受容
16世紀、東アジアではポルトガル/スペイン国家の世界市場形成に随伴して、カトリック教会、イエズス会による布教活動が行われた。1498年のヴァスコ・ダ・ガマのインド航路の発見によって、ポルトガルの貿易商人は南アフリカの喜望峰を回ってインドへ到達できるようになり、1510年にポルトガルはインドのゴアを占領し、東アジア貿易の拠点とした。後にゴアは、イエズス会によって東アジア布教の本部が置かれ、イエズス会士フランシスコ・ザビエルによるアジア布教の拠点となった。ザビエルはインド、日本、中国の順に広範なアジア各地でのキリスト教布教を試みた。16、17世紀におけるキリスト教布教を概観すると、その布教方法において日本と中国に類似点が見られる。当時スペインが入植した南アメリカでは土着文化の破壊、住民の殲滅、奴隷化が行われた一方で、ポルトガルが征服の対象とした日本・中国においては、土着文化の西欧文化の融合を意図とした適応/順応策が取られた。この布教地の言葉や文化を採り入れていく布教方策を「適応主義Accommodatio」と呼ぶ。
キリスト教を日本にもたらしたザビエルは、日本人の精神性に大きな影響を与えているのは中国文化であるとし中国宣教の重要性を指摘している。1552年1月29日にヨーロッパのイエズス会員に宛てて書いた書簡の中でザビエルは中国布教の決意について次のように述べている。
「日本の諸宗はシナから来たものです。シナはたいへん大きい国で、平和で、戦争は全くありません。そこにいるポルトガル人からの手紙によりますと、正義がたいへん尊ばれている国で、キリスト教国のどこにもないほど正義の国だそうです。(…)シナ人は極めて鋭敏で、才能が豊かであり、日本人よりもずっと優れ、学問のある人たちです。」
もし中国がキリスト教の国になれば、日本で信じられている諸宗派もその根を失うだろうと彼は書き、そのためにも中国へ行き、国王に会うのだと書く。ザビエルはかつて日本で果たそうとして失敗した大規模な国家規模の改宗計画を、今度は中国で果たそうとしたのである。
なぜザビエルは日本の布教に失望し中国布教の決意を抱いたのか。それは当時の日本が戦乱状態にあったことが理由の一つとして挙げられる。1550年ザビエルが天皇に謁見しようとした際、高位の紹介者と高価な贈り物を持たない者は不可能であったこと、京都が荒廃しており天皇が不在であることを知る。ザビエルは書簡の中で「ミヤコは昔はたいへん大きな町でしたが、今は戦争のために破壊し尽くされています」と述べている。安定した統一権力を持たない日本は安定した布教活動に適さないと判断したのである。また、この京都への旅でザビエルはこの考え方を改めることとなり、キリスト教を伝えるという目的のためには、現地の文化的価値観への譲歩を図る必要もあることを理解し始めた。このことが日本/中国布教における「適応主義」方策への転換点となる。
1-2 日本文化との適応
16世紀後期にイエズス会によって勧められた布教活動により、キリシタンは急速に日本に浸透し、17世紀初頭には30万人を超える信者がいたとされる。このような多くの信者を獲得することができた大きな要因の一つは、ザビエルの意志を継いだ巡察師ヴァリヤーノ(1539-1606)による「適応主義」によるものだった。1573年、ヴァリヤーノはイエズス会総会長からゴア管区の巡察師に任命され、日本を含む東アジア地域の布教に任ずることになり、戦国末期の変転する日本の政教事情をよく把握した上で「適応主義」による布教政策を行った。
「適応主義」では布教地の既存宗教を研究することの必要性を重視し、現地の日本人の宗教研究を通して布教方策を決定していたことが分かっている。例えばイエズス会士の日本人イルマンである不干斎ハビアン(1565-1621)は、日本人史上初の宗教研究所と評される『妙貞問答』の「八宗之事」という章において、法華宗・華厳宗・天台宗・真言宗・禅宗・浄土宗、さらには儒教や神道といった8つの宗教・宗派についての精緻な考察を行なっている。当時の日本において最も勢力を有する宗教の一つである一向宗に対して、「領主は(顕如光佐)は日本にある最も有害な宗派の首領であり、己をデウスのように崇めさせている」とした。イエズス会士たちは仏僧たちと宗教論争を行い、仏教の教えを論駁することによりキリスト教の正当性を論証した。
その後ヴァリヤーノは、豊臣秀吉の迫害に対する新たな対応の協議に迫られ、1590年に有馬領加津佐にて第二回総協議会を開催した。その中の「諮問五」「諮問十」によれば、日本風の接遇方法や慣習・礼儀作法を尊重すること、その際における仏僧の華美な仕方を避けて清貧を厳しく遵守すべきことが定められた。これらを見るに、いかに日本の宗教・風習に合わせること布教において必要だったかがわかる。
またヴァリヤーノは、日本人司祭養成のために神学校を設立し、それに伴ってキリスト教絵画の絵画学校を開設した。そこでは西欧から導入された聖画像を手本として日本人画家が養成され、西洋から招聘された教師によって正式に日本におけるキリスト教画家が生産された。なぜ日本人のキリスト教画家の養成が必要とされたのか。それはヨーロッパから日本まで絵画を運ぶことは非常に費用がかかり、船の難破などで多くの絵画が日本に着く前に失われてしまう点と、聖像画をより日本人の好みに適合したかったという点が理由として挙げられる。(1)そこではイエズス会士であり画家でもあるジョヴァンニ・ニコラオによって聖像画を油彩、水彩、墨で描く技術や、版画印刷が教えられた。当時、聖画像の需要は高く、聖画像制作は活況を呈していたという。また日本中の教会ばかりでなく信者の贈物として、また中国などの海外に送るためにも必要とされた。後述する《聖母十五玄義図》は、この工房で作られたのではないかとされる。
2章 日本・中国におけるキリスト教美術の変容
2-1 《聖母十五玄義図》
当時工房などで制作された礼拝用の聖画像は、禁教令によってその多くが破壊された。そのため聖画像の現存例はきわめて少ない。現存している資料で実証性のあるものは徳川幕府によって押収されたもの、あるいはキリシタンの家などに代々伝わっていたものに限られている。現在残っている聖画像のうち、西洋の図像と日本の様式の融合を実現した最も重要な作品は、京都大学総合図書館蔵の《聖母十五玄義図》である。
fig.1《聖母十五玄義図》京都大学総合図書館蔵
若桑みどり氏はこの《聖母十五玄義図》について、布教第二期の日本キリスト教絵画の代表として、またその当時の信仰形式の様態を証言する資料としても比肩するもののない価値を有するものとしている。
本図の構成としては、マリアへの受胎告知に始まる「喜び」の5場面、キリストの受難を描く「苦しみ」の5場面、キリストの復活とマリアの昇天までの「栄光」の5場面が順に配置されている。これらの15の場面は、聖母とキリストの生涯を五場面ずつ3部に分けて念ずる祈祷の形式から出たもので、西欧キリスト教会ではこの図像は「ロザリオの聖母」と呼ばれる。当時の信者はこれを掛け軸として床の間に掛け、数珠を繰りながらロザリオの祈祷(オラショ)を唱えていたことが推測されている。
本図は推定17世紀初頭に日本人によって制作され、茨木市の山間部下音羽の民家に伝えられたものであり、1930年に屋根の葺き替えの際に発見された。この聖像画は、前述したキリスト教絵画学校によって養成された日本人絵師が制作したものとみられている。現地の日本人が西洋の技法を学んだ上で本来の様式を再現しようと試みたのである。
2-2 マリア観音
江戸幕府の禁教令下において、潜伏キリシタンたちは信仰の形跡を残すことは許されず、ある種のものを隠れ蓑にしながら信仰を維持していた。熊本県天草地方では隠し十字仏や銭仏といったもの、長崎県浦上村では毘沙門天や獅子、観音像などといった、一見するとキリシタンだとはわからないものを信仰の対象としていた。なかでもマリア観音は、慈母観音を聖母マリアと同一視して信仰されていたものであり、潜伏キリシタンたちが行なっていた擬似信仰である。現在東京国立博物館に37体収蔵されているマリア観音は、1856年の浦上三番崩れや1867年の浦上四番崩れで浦上村のキリシタンが検挙された際に、長崎奉行所が没収し保管していたものである。これらは17世紀に明から清にかけて、福建省南部に位置する徳化釜で製造されたものであると記録されている。
fig.2マリア観音像 東京国立博物館
中国で製造された観音像が、どのようにして聖母マリアとして日本の潜伏キリシタンの信仰の対象になったのであろうか。その理由として若桑氏は、すでに聖母マリアとしてのイメージと結びついていた観音像を、潜伏キリシタンたちが「観音」としてではなく「聖母マリア」として受容したのではないかと説いている。つまり、「キリシタンたちは、いわゆるマリア観音像を観音とは思っていなかったのではないか」として「キリシタンたちが観音をマリアに見立てて拝んだ」という従来の見方を疑問視している。
16世紀後半に布教が行われた中国では、日本と同様に「適応政策」が取られた。中国宣教を先導したイエズス会士マテオ・リッチ(1552-1610)によって、中国の観音に似せて東洋の聖母を描かせたのではないかとされる聖母像《中国風聖母子》には、その「適応政策」の成果が如実に表れている。若桑氏はこの絵に関して「すでに中国における聖ルカの聖母の明らかな東洋化が起こっている」とし、さらに「日本に持ってこられた白磁の観音像と極めてよく似ている」と指摘している。そして、「このことが偶然でないとすれば、リッチは中国の観音に似せて東洋の聖母を描かせたのである」と述べている。また福建省ではキリスト教宣教師や信者の往来が多かったことから、輸出品として窯元が自ら白磁の像を製造した可能性があるとして、「1614年に禁教下に入った後、日本の信者が、明末期において、リッチの影響下に制作された東洋風の衣装と子供を抱いた聖母像を、唐船によって輸入したという可能性は否定できない」としている。このことから、日本のキリスト教美術は日本国内だけで変容したのではなく、中国の適応政策が大きく影響していると考えられる。
2-3 《念珠規定》
中国におけるキリスト教美術の変容が明白に読み取れる資料として、ロザリオ祈祷書《念珠規定》の中の木版挿図を挙げる。《念珠規定》は、リッチの協力者であるジョアン・デ・ローチャ(1565-1623)がポルトガルの祈祷書を中国語に翻訳したものである。その中でも注目したいのは、祈祷の各奥義に1枚ずつ添付された木版の挿図である。引用元である《エヴァンゲリア》と比較すると、装飾や建築様式が中国風に改変されている。
fig.3 左図 ヘロニモ・ナダール「受胎告知」《エヴァンゲリア》1593年
fig.4 右図 「聖母領上主降孕之報」(「受胎告知」)《念珠規定》1624年
《念珠規定》の中の挿図の一つ「聖母領上主降孕之報」における雲の描き方は、明らかに中国の伝統的な雲形模様であり、西洋の主題を極東の芸術様式に翻訳しようとする意図が如実に現れている。
この木版挿図が制作されたのは、日本で《聖母十五玄義図》が制作されたのと同時期である。日本では現地人が西洋の技法を学んだ上で本来の様式を再現しようと試みたのに対し、中国では現地の絵師が独自の芸術言語に翻訳していた。それは従来のイエズス会の立場から見れば「誤訳」であるが、現地の絵師や信者にとっては自然な「翻案」だったと考えられる。
これまで、16-17世紀における布教がいかに実践されたか、それを当時の日本人がどう受け止めたかを記述した。16-17世紀の日本・中国における布教では「適応主義」による布教方策が取られ、またその事によって西欧のキリスト教美術と現地の美術を混淆する現状が起きた。また南米や東南アジアなどでは、抑圧的な植民地化と共に現地住民のキリスト教化が進められ、抑圧者=キリスト教国、非抑圧者=植民地の構造であったのに対し、日本では抑圧者/非抑圧者の構造が禁教令により反転する状況になったという複雑な事実がある。
次章ではこれらの事実を踏まえた上で、異なる宗教が渾然一体とした状況をいかに絵画として描けるかを提起する。
3章 絵画技法
3-1 《あけぼの村物語》における絵画空間
キリスト教布教の歴史を辿るうちに、様々な視点や異なる宗教が渾然一体となった状態をいかに絵画として描けるか、という問いが生まれた。抑圧者/被抑圧者の2項対立ではない、複雑な状況が現実に存在していることを、一枚の絵に描くことによって表現したいと考えた。これまで述べたキリスト教の教化・禁教に至る歴史の中で、当時の信徒が土着の観音を聖母マリアとして理解していた事実がある。そこでは目の前の現実の風景とキリスト教文化の風景を同時に見ており、その風景はモンタージュ的なのではないだろうか。この問いを踏まえ、複数の事実を断片化し画面に再構成する方法の参考例として山下菊二《あけぼの村物語》を挙げる。
《あけぼの村物語》は、山梨県旧曙村で起こった現実の事件を取材して描かれた作品である。それはどのような事件だったか。曙村に戦時中から村民を搾取していた地主が銀行を計画倒産させた事で、孫娘の入学を楽しみにしていた老婆が、預金が戻らないのを悲観して首を吊る(画面右)。そして地主は貧しい娘が耕す麦畑を潰して自分の利益となる農道を作る(画面中央上)など横暴を極めていた。そのため共産党の活動家が村に入り、1952年7月に村人が地主に対して抗議運動を起こしたが、地主宅を襲撃する計画の情報が事前に漏れてしまい活動家が怪我を負う。村民は藁のカマス袋に活動家を隠しリヤカーに乗せて逃走するが(画面左上)、山狩りに追われた活動家は溺死体で発見される(画面左下)。その結果「曙村山林地主襲撃事件」として村民側が起訴されたという一連の事件だった。戦後の不安定な日本の現実を新たなリアリズムの手法で捉えようとする「ルポルタージュ絵画」の記念碑的作品と位置付けられた。
第一回ニッポン展に展示されたこの作品について針生一郎は「ニッポン展でみた、山下菊二の《あけぼの村物語》がもつ不思議なリアリティ(中略)それはけっして成功作とはいえぬゴタゴタした作品であったが、封建制とサク取にみちた農村の複雑な葛藤を、幻想と写実とを混在させながら、異常になまなましく描き出していた」(2)と評価している。この絵画は一見するとどのような時系列で事件が起こったかわからないようになっている。老婆、赤犬、死体など各イメージのわかりやすさとは別に、描かれている内容は簡単には捉えがたい。その要因として、シュルレアリスムの影響を受けた山下が、モンタージュ技法によって複数の事件を一枚の画面に圧縮するようにして描いた事が考えられる。
3-2 《あけぼの村物語》におけるモンタージュ技法
モンタージュとは主に映画技法に使われる用語であり、複数の断片を組み合わせて一つの連続したシーンを作る方法である。平面においてこのような技法が使われる際はコラージュ、フォトモンタージュなどと呼ばれる事が多いが、何をコラージュ、フォトモンタージュとするかは時代や国によって異なり、時には混在していることもあるため、明確に区分は定められていない。しかし一般的な区分としてはコラージュの言葉の語源は「貼り付ける」という意味のフランス語に由来しており、キャンバス等の支持体に紙や写真を貼り付けたものをいう。一方フォトモンタージュは「組み立てる」という言葉から由来しており、二つ以上の映像を重ねたり、合成したりすることを指している。(3)
当初山下は真相を訴えるために紙芝居での制作を構想していたが、紙芝居化が中止となり、場面を取捨選択して絵画にまとめあげたという経緯がある。このことから《あけぼの村物語》の画面は複数のシーンを重ね結合することで成り立っており、モンタージュ的といえる。針生氏は1963年『美術手帖』戦後美術衰退史で、《あけぼの村物語》の絵画技法について「手法的にはモンタージュとコラージュの手法にすぎないが、事物とその背景という典型論はのりこえられ、ギニョールのような人物と物体が重なりあう画面に、因襲と抑圧、狂気と夢魔の渦まく山村の現実が、超自然的なおとぎ話のように描き出されている」と評し、これを「シュルレアリスムの心理主義的次元を克服した「状況の絵画」」と表現している。(4)
また、《あけぼの村物語》は一見抑圧者側から見た視点で描かれているように見えるが、岡﨑乾二郎はこの作品の中にある地主の加害者性を告発するための仕掛けを次のように指摘している。
悪徳地主の搾取を告発するのかがこの絵の主題であるようですが、ここには地主はでてこない、なぜならこれは告発されている当の地主の視点から描いているからです。連鎖して起こった、個々はバラバラのすべての事件の因果関係を知っているはずの地主の視点から見てはじめて、画面は統合される。あるいはこれを描いている山下も含めて、この場面を傍観している鑑賞者はむしろ地主と同じ加害者の側にこそいるのだと、告発されているのです。この絵を見ているわれわれこそが、地主と同じように告発されている。(5)
この作品の「加害者の視点によって構成される」仕組みによって、この作品の鑑賞者は地主と同じ視点となる。あけぼの村物語には、見られる対象としての被抑圧者、見る主体としての抑圧者の視点が含まれていると岡崎は指摘している。さらに、作者として山下自身の視点が入ることにより、作品が内包する視点はより複雑なものとなっている。
4章 修了制作《東亜の聖母》
4-1 修了制作に至る実践
本修了制作に至るまで、ドローイングや版画制作を通したいくつかの実践があった。絵画に様々な視点を配置しようとする実践の初期作品として、まず一つ目に筆者が2020年3〜8月に制作したドローイング群の一部を参照する。
fig.5 fig.6 fig.7
これらのドローイングは新型コロナウイルスによる外出自粛要請が出された際に筆者が描いた風景画である。家にいる時間が多くなった影響により、家にいる自分と外の世界をつなぎ合わせて絵を描こうと思い制作したものである。左のfig.4では谷中霊園を散歩した記録、中央のfig.6は近所のトンネルの風景、右のfig.7ではネットサーフィンをしていた際に見た画像や動画がモチーフとなっている。これらの絵は実際に見た断片的な風景を一枚の画面の中に再構成して描かれており、俯瞰視点や主観視点を重ね合わせて一つの風景にしたものである。この頃から、今生きている時代の現実の風景だけでなく、自らの手に触れられない時代や場所の風景を描くことは可能なのかを考えるようになった。
また、キリスト教布教の歴史を辿るうちに様々な視点や異なる宗教が渾然一体となった状態をいかに絵画として描けるか、という問いが生まれ、抑圧者/被抑圧者の二項対立ではない、複雑な状況が現実に存在していることを一枚の平面に表現するために、様々なイコンや風景を組み合わせた絵を描き始めた。
fig.8 fig.9 fig.10
上記の作品は筆者が修了制作『東亜の聖母』制作と並行して描いたドローイングである。16-17世紀の日本布教の際に使用された地図やイコン、2020年1月に訪問した長崎の記録などをもとに、それらの情報を組み合わせて描いたものである。これらのドローイングは本修了制作《東亜の聖母》に直接反映されている。
4-2 《東亜の聖母》
前述した通り、山下菊二は《あけぼの村物語》において、バラバラの場面をモンタージュ的に一枚の画面に圧縮する方法によって絵画を制作した。しかしその圧縮方法は異時同図法的なものであり、鑑賞者の視線の移動は水平的である。筆者は、絵画を複数の時間の層が集まった集合体と捉え、時間の層を垂直に運動する方法で場面をモンタージュできないかと考える。今生きている時間軸とは全く異なる時代にアクセスするためには、視線のスクロールによる水平運動のみではなく、画面の層を遡行/浮上するような運動が必要なのではないかと考察する。その予測をもとにエスキースとなる設計図を制作し、本修了制作《東亜の聖母》を制作した。
fig.11 《東亜の聖母》のエスキース
fig.12 《東亜の聖母》(中央図)
本作品の画面は、絵の具での描写と「掘りによる描写」が施されている。筆者が画面を掘る理由は、一枚の画面が物質的にも奥行きを持った層であることをあらわにするためである。画面の層を遡行/浮上するような運動を絵画に残すために、画面を地面のように掘る。これにより、本来手前に見えているものが物質的には後退しているという現象を起こさせ、画面の地と図の関係を反転させている。複数の時間の層を行き来する運動を絵画の中で発生させるために、掘りの描写、絵の具、パースが複雑に交差するような画面を制作している。
キリスト教美術の様式が、日本や中国の文化を経て本来とは異なる様式に翻案され信仰されるという状況は、植民地支配における抑圧者側の視点と被抑圧者側の視点が複雑に捻れ合っているといえる。この状況を描き出すことにより、一方的なメッセージではない複雑な問いを投げかけることはできないかと考えている。
おわりに
16-17世紀に日本に伝わったキリスト教が、禁教という歴史を挟みながらもなぜ現在でも受け入れられているのか。それはザビエルの後を継いだヴァリヤーノによる「適応主義」によって、現地の文化と適応する布教モデルが確立したからである。それにより、西欧のキリスト教美術と現地の美術を混淆する現象が起きた。また南米や東南アジアなどでは、抑圧的な植民地化と共に現地住民のキリスト教化が進められ、抑圧者=キリスト教国、非抑圧者=植民地の構造であったのに対し、日本では抑圧者/非抑圧者の構造が禁教令により反転する状況になった。
抑圧者側と被抑圧者という二項対立では理解し得ない複雑な状況を、1枚の絵画という画面に描くことは可能なのかという問いから、山下菊次の《あけぼの村物語》におけるバラバラの場面をモンタージュ的に一枚の画面に圧縮する方法を参照した。本作品『東亜の聖母』制作では、その技法を応用し、画面の層を遡行/浮上するような運動を絵画に持たせるため、「掘りによる描写」を行なった。絵画を複数の時間の層が集まった集合体と捉え直すことにより、絵画における空間表現の新たな地平を切り開くことは可能か、という問いからこの技法は発生したが、削る技術だけでなく、のせる塗料の質や量にも着目し制作を行う必要があるだろう。またモンタージュする対象については、時代や立場にも着目して構成する必要があり、今後精査していく必要がある。
キリスト教布教の歴史は元来植民地化の歴史と同義である。しかし、本作品のタイトルとした「東亜」においてはその様態は容易に抑圧/非抑圧の面で語ることはできない。本来リアリズムとは、このような複雑な現実を描き出すことなのではないだろうか。絵画を制作する立場として、一元的な見方で語る事のできない絵画を今後も制作し続けたいと考える。
【引用文献】
(1)若桑みどり『聖母像の到来』青土社p158(2008)
(2) 針生一郎「特集・現代日本絵画の主題と方法 そのVI記録性について」『美術批評』 p58 (1955)
(3) 藤村里美「コラージュとフォトモンタージュ-写真黎明期のフォトモンタージュから日本の写真におけるコラージュの受容まで」p29(2006)
(4) 針生一郎「戦後美術盛衰史 ・戦争と平和の谷間で」『美術手帖』p100(1963)
(5) 岡﨑乾二郎「Populism としての歴史主義あるいは脱出の方法としてのPop」『東京都現代美術館年
報・研究紀要』第十四号 pp81-82 (2011)
【参考文献】
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中園成生「かくれキリシタン信仰-キリシタン信仰の実相-」『特別展 キリシタン 日本とキリスト教の469年』六一書房(2018)
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高瀬弘一郎(著)日埜博司(訳)「キリシタン布教における"適応"について:『来日450周年台ザビエル展図録』所載論文より(その2)」『流通經濟大學論集』34(1)pp109-156 流通経済大学(1999)
安高啓明「キリシタン資料の真偽性」『海路-海港都市の発展とキリスト教受容のかたち-』西南学院博物館(2014)
大橋幸泰「《特集》キリシタンの跡をたどる ――バチカン図書館所蔵マレガ収集文書の発見と国際交流――
16-19世紀日本におけるキリシタンの受容・禁制・潜伏 」『国文学研究資料館紀要』12 pp123-134(2016)
狭間芳樹「近世日本における聖書受容と文化/社会抵抗: キリシタンの殉教をめぐって」『関西学院大学キリスト教と文化研究』13 pp199-209(2012)
鈴木勝雄「新しいコレクション 山下菊二《あけぼの村物語》」『現代の眼』No.605 東京国立近代美術館p.12(2014)
三上満良「山下菊二《あけぼの村物語》 「メロドラマ」が「状況の絵画」に変わるまで──針生一郎の作品評の“変節”が語るもの」『現代の眼』No.613 東京国立近代美術館pp.2-3(2015)
石川卓麿「山下菊二《あけぼの村物語》 告発と眼差し」『現代の眼』No.613 東京国立近代美術館
pp.4-5(2015)
【図版出典】
fig.1《聖母十五玄義図》京都大学総合図書館蔵
fig.2マリア観音像 東京国立博物館
fig.3 ヘロニモ・ナダール「受胎告知」《エヴァンゲリア》若桑みどり『聖母像の到来』青土社(2008) p.87
fig.4「聖母領上主降孕之報」(「受胎告知」)《念珠規定》 若桑みどり『聖母像の到来』青土社(2008) p.91